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遺産相続人 30
ほんのわずかに揺れたスプリングのきしみと、さらさらと滑るリネンの感触で、デイヴィッドがベッドを離れたのを感じとった。瞼に届く光は明るく、既に朝なのだろうとも理解出来た。それでも、カリーナの身体はベッドに沈み込むような睡魔に包まれている。
記憶にある限り、カリーナは誰かと一つのベッドで眠ったことがない。なのに、今離れていくデイヴィッドの存在が恋しかった。もっと一緒にいて欲しかった。
でもそう思うだけで、重い瞼は開かず、部屋を出て行こうとする人を視線ですら追えない。言葉ももちろん出てこない。
夢なのかもと思い、同時にそうでない事も、たった今まで隣に眠っていた人の残り香が、わずかな身じろぎに纏わりついてきたことでわかった。その残り香を求めて寝返りを打つと、シーツが絡まるようにして一緒に動く。
カリーナは、その残り香と身体にまきつくシーツの中で再び微睡んだ。
次に気がついたのは、カリーナの全身を覆う温もり。
すぐには、なぜだかわからなくて目を開けようとした。
その身じろぎに反応してか、優しい声が聞こえる。
「カリーナ、まだ早い。寝てなさい」
さっきベッドを出て行ったと思ったのに、デイヴィッドは戻って来ていた。
その安心感と、優しい声に促されて再び眠りついた。
三たび夢から覚めたのは、その隣に横たわった人からの優しい刺激によるものだった。
うっすらと目を開けたその先で、カリーナの乱れて絡まった髪を、デイヴィッドの指先が解きほぐすように梳いている。
「デイヴィッド?」
「ん?」
見上げると、既に着替えているデイヴィッドは、服を着たままでベッドの上にいる。
「早いのね」
「でもちゃんと眠れたよ。君のおかげでね」
「やだ……」
「カリーナ」
「……はい」
真上から、間近に見つめられて思わずシーツを握り締めてしまう。そして勝手に手はシーツを引き上げようとする。その握りしめた手に、デイヴィッドの手が重なる。
「おはよう」
「あの……おはよう」
「恋人に朝から警戒されるのもどうかと思うが」
そうい言いながら、キスをする。額にも頬にも、いくつものキス。
「……ごめんなさい」
そうは言うものの、シーツを握り締めた手は離せなかった。
最後にそのシーツを握り締めている手の甲にキスをしてから、デイヴィッドは起き上がった。
「着替えは届いているから、起きておいで。ライラが朝食もたっぷりと準備してくれた」
「え?」
「昨夜の逃避行は、筒抜けだったようだ」
「……うそ」
「ウィルには誘拐犯だと言われた」
「やだ」
「カリーナ、婚約している恋人同士が夜中に消えたくらいでは、誰も驚きはしないから大丈夫だ」
「デイヴィッド」
「ということで、下で待っている」
デイヴィッドは、さも楽しそうに再度キスをして出て行った。
彼の感覚ではそれで当たり前なのかも知れないけれど、カリーナの感覚ではとても恥ずかしい事だった。昨夜、ダンバートの屋敷を抜け出したことが皆に知られていると思うと、体中が赤くなってしまう。
確かに、こっそり戻る、という選択肢は最初からなかったような気はする。それに明るくなってから堂々と戻る、というのも改めて考えてみるととても恥ずかしい。
こんな大胆な事が出来るなんて思いもしなかった。
結局、デイヴィッドに振り回されている、としか思えない。
あとでライラにどんな顔をして会えば良いのかわからない。それにウィルも。
きっと彼はまた嬉しそうにウインクして、カリーナを困らせて楽しむ。
「もう……」
二度とデイヴィッドにそそのかされたりしない。そう心に誓って階下へとおりた。
「カリーナ、今夜は何がいい?」
「え?」
「クラシックにしようか?」
「デイヴィッド?」
どうやら、それは今夜のデートプランのことだとは理解出来た。
でも、つい疑ってしまう。彼の真意を……。
「今日は何もないから」
「でも」
外出すれば、話題の二人だけに何もないではすまされないように思える。
「大丈夫だ。今パパラッチ達は大きな餌を与えられてお出かけ中だ」
「どこへ?」
「カリブあたりかな?」
「デイヴィッド……」
スコット・ブラッドレーが約束していた一週間。その日が来たという事なのだろうか?
カリブに、パパラッチ達が吸い寄せられるような、魅力的なスキャンダルが転がっているという事なのだろうか?
もう追い回される心配をしなくても良くなるという事だとは思うものの、スッキリしない。でも、だからと言って、何をどう考えたら良いのかもわからない。
「カリーナ、気になる事があるのだろう?」
「どうして……」
デイヴィッドは、カリーナが言葉に詰まっているのを察したらしく、顔を覗き込んで聞いて来る。
「君は、言いたい事があるとき、必ず私を見る。でも直ぐには言葉にせず、一瞬その言葉を止めてしまう。しかも嫌な事を尋ねなければならない時は、その思いが全て顔に出ている」
「……うそ」
そんなこと気付いてもいなかった。
「前にも話しただろう? 君は何でも聞いていいんだ」
「デイヴィッド……」
「さしずめ、気になるのは明日の朝刊かな?」
うなずくしかない。誰かが、カリーナの代わりにパパラッチ達の餌食にされたのだから。
「気にする事はない。今度の対象は、自業自得だ」
「でも……」
「明日の一面を見れば、納得するだろう」
「全部、知っているのね?」
「ああ」
「誰かが困った事にはならない?」
「善良な人間は一切困らない」
「それなら……」
その説明で納得するしかなかった。
「だからコンサートでも行こうかなと思っている。ついでに君の部屋にいって、必要なものを取ってこよう」
「でも」
「カリーナ、今更、別々の時間を過ごす事などないだろう?」
「……」
「では、コンサートをやめて教会へ行こうか?」
「デイヴィッド」
ちょっと慌ててしまう。
「そこで、その反応もどうかと思うがね」
「だって」
「今朝のことといい、どうも嫌われているような気がする」
「デイヴィッドったら」
子供みたいな事を言わないで欲しい。
「じゃあ行くね? コンサート。それから、来週からはパークアベニューのフラットだ」
どうしてそうなるのか、わからない。
恨めしげに見上げても、デイヴィッドは気付かぬフリをする。それは質問を受け付けるつもりがないという意思表示だと思えた。何でも聞いて良いと言っておきながら……。
「今週は外出したくない」
「そう? それならそれで構わない」
意外にもあっさりと返されてしまう。
「いいの?」
「ああ」
「じゃ、今日もライラのレストランを手伝ってもいい?」
「それは却下。既にライラの承諾は得ている」
「いつの間に……」
そう言われると思ってはいたものの、やはり釈然としない。
「カリーナ、それなら夏の予定を固めよう」
「え?」
「子供達は九月から寄宿舎に入る。八月のうちにシカゴへ行きたい。後半にはカナダへ行ってしまうから」
「カナダ」
「そう。シルヴァンはモントリオール。キャシーはビクトリアだ」
「なぜ、そんな端と端に」
モントリオールは、まだ良い。近いし、いつでも行き来が出来る。でもビクトリアと言えば西海岸で、遠すぎるような気がする。
「二人とも、それぞれの意志で選択した結果だ。お互いに頼り合って支え合って来たが、もう守られてばかりの小さな子供ではないから、とアビーに言ったそうだ」
「でも、だからと言って、そんな」
「二人とも目標があるようだ。言葉にはしないが」
「そうなの……」
たった十三歳なのに、あの子達は既にロクシーである事を自覚し、それを踏まえた上で何らかの目標を持って前に進もうとしている。しかも、それは大人が強要したわけでもなく、自らの意志での決定。
二人がロクシーであり続ける事を望んで選択した道なのか、ロクシーから離れるために選択した道なのか、恐らく一年もすればはっきりする。
どんなに遅くとも三年後の十六歳の時には、誰の目にも明らかになるのだろう。
強い。なんて強い子たちなのだろう。
戸惑ってばかり、悩んで立ち止まってばかりのカリーナとは大違いだ。
やはり彼らもロクシーなのだな、と改めて思い知った。そして、目の前のデイヴィッドは、それを十歳でしている。
リチャードの言葉がよみがえる……生まれは選べなくとも、存在は選べる……。
ロクシーである事を選択する事の厳しさが、少しでも二人に優しい事を願ってしまう。
「カリーナ?」
「ん、寂しいかなと思って」
でも、既にその選択をし、そして躊躇った事で傷ついたデイヴィッドに、それは告げられない。
「いつでも会えるさ。会いたい時に」
「そうね」
(2008.06.21)