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遺産相続人 32
思いがけないスキャンダルに計画を阻まれたクリスティンは、タブロイド紙を無造作に放り、空港をあとにした。一億ドルの遺産相続は確かにニュースではあるものの、上院議員のスキャンダルに比べたら面白みはないに等しい。元々これでダメージを与えられるとは思っていなかった。ただ、堂々と社交界に出てくるであろう二人を見る事になるのが嫌だっただけ。ちょっとした腹いせのつもりだったのに、そんな単純なことさえスムースにいかなかった。
低俗なゴシップ紙がさも飛びつきそうに、裏を匂わせた情報を手配したはずだったのに、なぜか二人の記事は、経済紙を含めたありとあらゆる新聞に一斉に掲載された。しかも劇場から出て来たばかりの寄り添う二人の写真とともに。そして忌々しい事に、なかには好意的な記事すらあった。
それだけでも許せなかったのに、たった一週間で、紙面は大きなスキャンダルに取って代わられた。
全てを偶然とみなすには、偶然すぎて無理がある。デイヴィッドの仕業なのかそうでないのか、調べる必要がありそうだった。
ニューヨークでの定宿にしているホテルに着くまで、ずっとそのことが頭の中を駆け巡っていた。
クリスティンは、名だたるクチュリエのステージを総なめにした二十五歳の時、絶頂期でモデルを引退し、その直後にモデルエージェンシーを立ち上げた。
どんなに売れたスーパーモデルでも、一旦キャットウォークを降りてしまえば、周囲の扱いは一転してしまうのが常で、突出した才能がなければ二度と賞賛を浴びる事がない。
多くのモデルが忘れ去られて行くなかで、クリスティンのビジネスセンスには誰もが驚いた。
設立からわずか数年で、会社はファッション業界でもトップレベルにのし上がり、様々な組織を吸収しながら今なお拡大し続けている。
その成功を妬むものは、ロクシーの資本がバックにあるからだろうとも、ロクシーの力でのし上がったのだとも言う。周囲がロクシーの名前を恐れるのならば、そのままにし、そう思っているもの達への牽制とするのが得策だと考え、噂を否定してまわるような事はしなかった。名前一つでビジネスがうまく行くなら、それはとことん利用する。
クリスティン自身がそうでないことを理解していれば、それで良かった。
九月からのコレクションシーズンに向け、クリスティンは新たなデザイナーとの契約を結ぼうとしていた。そのデザイナーとはアポイントさえ取れていないものの、業界屈指のモデルエージェンシーでもあるクリスティンの会社と契約を結びたがらないデザイナーなどいない。そう信じていた。
そしてこれから契約をしようとしているのは、イタリア人デザイナーのガブリエーレ。彼は、これまでメンズしか発表してこなかったが、次回のコレクションではレディスを出す事になっている。この秋、最も注目度の高い一人と言える。
そのガブリエーレとは、なぜか一面識もなかった。もちろんファッション誌では頻繁に見かけるし、過去のショーの映像も何度も見ている。相手がメンズオンリーということもあってなのか、すれ違う事すらなかった。
さほど広くもないファッション業界において、お互いにトップレベルに位置するものとして、この事実には驚かされる。
秘書の調べで、ガブリエーレがニューヨークに一週間滞在すると聞き、やりかけの仕事を全てチーフに任せてパリを出て来た。
滞在先のホテルまで掴めなかった事が悔やまれるが、それは追って連絡が入るだろう。もしくは、ニューヨークでならば、クリスティンに調べられない事などない。それを思いつき、直ぐに覚えきっている番号に電話を入れた。が、いつもの電話が通じない。
そのことを真剣に考えようとした矢先、着いて三十分もたっていない部屋のドアがノックされた。
「私に会いに来てくださるなんて、珍しい事もあるものね?」
「そうかな、意外ではなかったようだ」
「そうね。不意打ちは好みではないわ」
「なら、要件も承知の上だろうね」
「デイヴィッド、私は人の心が読めるわけではないのよ。言葉にして頂かないとわからないわ」
「ほう。クチュリエさえ手玉に取る稀代の魔女かと思っていたが」
それは、数年前にファッション業界の大物がクリスティンに贈った賛辞だった。
「お褒めに預かり光栄だわ」
「ところで、君が飼っていた子ネズミは駆除させてもらった」
「なんのことかしら?」
「ニューヨークは広い。だが、思いのほかよく見える」
「疑った事はないわ」
「何がいようと基本的には問題ないが、視界に入ってまでウロチョロされるのは困る」
「入らなければ、良いわけね」
「そうだ。頭の良い君ならわかるだろう。ロクシーの事業はかなり手広い。あらゆる角度から様々なものが見える。それを忘れない事だ」
「要件はそれだけ?」
「今は」
「ではお帰り頂くべきかしら? 貴方も私も、無駄な時間など持ち合わせていないはずよ」
「そうだな」
いきなり現れ、言いたい事を言って帰って行くデイヴィッドを、クリスティンは息を詰めて見送った。
空港から真っ直ぐこのホテルに来ている。誰にも到着した事を知らせていないはずなのに、デイヴィッドは時間をおかずに現れた。あの小娘を揺さぶったことが、余程気に入らなかったらしい。
そのことにすら苛立が募る。
パリの本部秘書に直ぐにでも確認したかった。誰かがクリスティンの行き先を問い合わせてこなかったかを。だが、それは理性を働かせて思いとどまった。
ロクシーの力がどれほどか、三年前に充分に思い知っている。いえ、あの時は、ロクシーの力の半分でもなかったはず。
レスターはクリスティンを彼個人の力だけで抑えた。勿論ロクシーという名前は重要な役割を果たしていただろう。それでも、軌道に乗っていた事業を危うくしたクリスティンに比べ、レスターは殆ど損害がないに等しい。唯一の損害は、倒れた事か。それとて、クリスティンの事が原因だとは思っていない。
レスターは子供の頃に心臓を患っている。それがたまたま再発しただけのこと。クリスティンが動かなくとも、ロクシーの総帥としての激務は充分に健康なものでも命を削る。
それでも、クリスティンはその地位が欲しかった。
レスターは、本家の長男だった。が、生まれつき身体が弱かった。
もし、レスターに類いまれな才能がなかったなら、後継は当時副総帥だったクリスティンの祖父が引き継ぐはずだった。ところが実際には、病弱なレスターがわずか十二歳で後継指名を受けている。
祖父はレスターの後継を内面では苦々しく、表では喜んで受け入れた。レスターの身体が先に悲鳴を上げるだろうと踏んでいたからだった。が、そうは行かず、年齢を重ねるごとにレスターの身体は健康を取り戻し、祖父は副総帥のまま引退した。
その意を受け取るはずの父は、クリスティンから見ても論外であり、プライドだけは高すぎる母にけしかけられ、失敗ばかり繰り返している。
幼かったクリスティンは、その祖父から教育を受けた。兄のドナヒューは、母が手許から一切離さなかった事もあるが、ドナヒューに才能を見いだせなかった祖父は、はじめからクリスティンだけに力を注いだ。
普通ならしかるべく寄宿舎や名門の学校に入るべき年齢になっても、ずっと家庭教師ばかりで、経済に関することは八歳の時から勉強させられた。それは、いつかクリスティンがロクシーの総帥になれると信じていたからだった。
レスターの身体の問題かアビーの問題かハッキリはしなかったものの、本家にはアマンダしか生まれていない。アマンダには何ら才能がないと見て取った祖父は、クリスティンに期待をかけた。
クリスティン自身、親族の集まりの度に会うアマンダが、どうみても自分より勝るところが何一つない事を認識していた。だが、親族の眼は常にアマンダにだけ向けられる。優秀である事が望まれるロクシー一族のなかにあって、何ら取り柄のないアマンダばかりが注目される事に少なからず憤りも感じていた。
アマンダが十六歳になった時、レスターが後継を探し始めた。なかでもデイヴィッドが筆頭にくることは予測していた。ただ、クリスティンより年下だったため、デイヴィッドの力量は掴めないでいた。それよりも問題は、当時十八歳のリチャード・アンダーソンだった。思いがけないダークホースに、頭を抱え、相談すべき祖父も既になく、クリスティンは十三歳で敗北を感じていた。
それが急変したのは、四年後にリチャードが指名を受けず海軍に入った時だった。既に二十歳になっていたアマンダは相変わらず本家の一人娘で、デイヴィッドも指名を受けていなかった。
チャンスがあると思った。モデルとして活躍しはじめていたクリスティンは、モデルを続けながら、事業の道筋をつくり始めた。ビジネスセンスはロクシーの事業を継ぐためには最も重要な要素。それを見せつける必要があったから。
着々と計画を進めていたのに、その夢は、信じられない事に身内によって砕かれてしまった。
何度思い返しても、愚かすぎる兄と母にはどんな罰を与えても与え足りない。
だが兄は自滅し、そして母は、自責の念に駆られることもおのが失策を恥じる事もなく、精神を患った。父はただ失意の日々を過ごしている。
クリスティンは、意味のない回想をそこで断ち切った。
思いがけないデイヴィッドの出現で、ビジネスへの集中力が途切れる。
やっと立ち直ったクリスティンは、本来の目的であるガブリエーレの滞在先を求めて、いくつか電話をいれた。数本で情報を仕入れ、探し当てた宿泊先にシチリア産のワインを届ける手配をする。
夜まで待ってから、連絡を入れるつもりだった。
会う事さえ出来れば契約したも同じ。そう思い、改めて数本の電話をかけた。業界の中でも情報通と思われているプロデューサーと食事の約束を取り付け、おもむろに美容室に予約を入れた。
クリスティンは、著名なデザイナーのものでもそうでないものでも、自分を引き立てるデザインならば誰の服でもこだわりなく身に付ける。その日選んだのは、パリで見つけたブティックのオリジナルだった。ペールブルーの上品なシルエットのドレスは、くるぶし丈で、歩く度に揺れる裾が涼しげな夏の宵に相応しい。
「クリスティン、今日も美しい」
「ありがとう。アンリ。今日は突然なのにムリを言ってごめんなさい」
「美しい魔女との食事はいつでも楽しいものですよ」
「まあ」
ニューヨークで一番ホットでゴージャスなレストランは、少し高い位置にフロアーがつくられ、ガラス張りの店内からは通りを歩く人々を見渡すことができ、優越感までたっぷりと演出してくれる。特に場所の良い窓際に案内されたクリスティンは、アンリが引いてくれた椅子に座ろうとし、直後に驚いて立ち上がった。
「クリスティン?」
「なぜ」
「どうかした?」
「どうして、彼がここに」
クリスティンの視線の先には磨りガラスで仕切られたバーコーナーが見えていた。
そちらへ視線を向けたアンリが、平然と答える。
「ガブリエーレは、ここのバーがお気に入りのようだ。一昨日も見かけた」
「……」
直接面識はなくとも、ガブリエーレのことはこの数ヶ月ずっと追いかけている。クリスティンが知らないのは、彼の生の声だけだった。
「もう一人は、君の従弟じゃないのか?」
「ええ……そうよ」
そしてそのガブリエーレと親しげに話しているのは、デイヴィッドだった。
(2008.06.26)