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遺産相続人 34

 かすかに聞こえた物音で、デイヴィッドが帰って来たのがわかった。
 パークアベニューのフラットに連れてこられてからもデイヴィッドの帰宅は連日深夜で、カリーナが眠りついたあとでベッドに入って来ていて、朝目覚めるとそこにいる、という日々が続いていた。
 二人でいられるのは、慌ただしい朝の時間と仕事へ向かう通勤の時だけだった。
 そのデイヴィッドが珍しく早い。
 カリーナは微睡みかけていた身体を覚醒させながら、デイヴィッドの気配を感じ取っていく。
 そのデイヴィッドが、ようやくベッドに入って来た時、そっと声をかけた。
「デイヴィッド?」
「カリーナ、起こしてしまったか?」
「ううん。ベッドに入ったばかりだったの」
「そうか」
 そう言いながらデイヴィッドが手を伸ばして来る。
 その手に抱き寄せられながら、シャワーで湿ったデイヴィッドの髪に指先を伸ばした。乱れて額にかかる前髪をかき上げ、それから頬に触れる。
「今日は早かったのね。少しは落ち着いて来たの?」
「どうかな」
 仕事の事は話したくないのだろうと、それ以上は聞かなかった。ただ、疲労の色が濃い事に不安がよぎる。
「あまり無理しないで」
「してないよ」
 頬に触れていたカリーナの手を握り締め、指先にキスをしながら、更に強く抱き寄せられる。
「カリーナ?」
「うん?」
「ただいま」
 思わず微笑んでしまう。
 普通なら毎日聞ける言葉のはずなのに、デイヴィッドからこの言葉を聞くのはかなり珍しい。
「お帰りなさい」
 そう答えながら、指先を剥がされた頬にキスをした。
「早く帰ると、こんな良い事があるんだな」
「え?」
「君からキスをしてくれるなんて」
「そんな」
 朝だってしているのに……。でもそう言う前にキスで言葉を止められる。
「カリーナ、愛している」
「ん……」
 返事をさせてくれない唇に、カリーナは素直に従った。
 キスはいつも甘く限りなく優しい。その心地よさに浸りきっていると、デイヴィッドの手が背中から腰へ、更に下へと滑り落ちてゆく。
「デイヴィッド?」
 やっと離してもらえた唇から漏れるのは、ため息混じりの囁きだけで、それを胸元で受け止めたデイヴィッドの唇は、カリーナの頭のてっぺんだった。
「残念だが、今夜はもう遅いから眠る事にしよう」
「……」
 眠ろうと言いながら、まだデイヴィッドの手はカリーナの身体を這い回っている。でもその手は、だんだんと優しく宥めるようなものに変わっていく。
「おやすみ」
 ため息混じりの囁きに、一旦遠のけておいた睡魔が戻って来る。
「おやすみなさい」
 デイヴィッドの手はカリーナの身体を巻き込んだまま、放そうとはしなかった。
 まだ起きているのかと思えば、そうではなく、いつのまにか呼吸が穏やかになっている。
 あっという間に寝入ってしまったデイヴィッドを見上げ、どれほど疲れているのかと心配になってしまう。
 少しでも、助けてあげる事が出来れば良いのに……。
 そう思いながら、カリーナもデイヴィッドに抱き寄せられたまま眠りついた。


 いつも先に目覚めるのはカリーナで、眠っているデイヴィッドの様子を暫し見つめてから、朝の支度に取りかかる。五分でも長く身体を休めてもらえたらと、そう思い静かにベッドを離れるのが日常になっていた。
 それでも昨夜が珍しく早かったからか、デイヴィッドがベッドを離れようとしたカリーナを引き止めた。
「今度は私が起こしてしまったの?」
「いや、充分寝たよ」
「でもまだ早いわ」
「だったら、少し側にいて」
「でも」
 困っている間にベッドに引き戻されてしまう。
「デイヴィッド」
「いいから」
 昨夜と同様に力強い腕の中に引き込まれ、あっという間にカリーナの眼にはデイヴィッドの喉元しか見えなくなる。
「少し仕事をセーブしないと駄目かな」
「え?」
「一緒の部屋にいて、一つのベッドを共有していても、君を抱きしめる時間が少なすぎる」
「それより身体の心配をして欲しいのに……」
「私としては、もっと違う心配をして欲しいな」
「え?」
「もっとこうして触れ合う時間が欲しいとか」
「やだ」
「もっとキスをして欲しいとか」
「デイヴィッド」
 恥ずかしくて逃げようとするのを、しっかりとおさえ込まれてしまう。今度は完全にデイヴィッドの下にされてしまい、逃げ場のない身体が勝手に熱くなる。
「カリーナ」
 そっとキスが降って来る。でも、優しかったのは最初の一瞬だけで、すぐにそれは欲求を抑えきれないとでも言いたげな激しいものに変わる。
 戸惑いながらその激しさを受け止めていたカリーナは、キスが少しずつ穏やかなものに変わるのを感じ取り、同時にぴったりと重なっていたデイヴィッドの身体の重みが消えていくのを、なぜか切ない思いで受け止めた。
「デイヴィッド……」
 その呟きに暖かい唇が触れ、優しくなぞっていく。
「カリーナ」
「……」
「君を遅刻させるわけにはいかないし、そんな切なそうな顔を誰にも見せるわけにはいかない。だから今はここまで」
「……」
 デイヴィッドはからかうような笑みを口元に浮かべ、音を立ててキスをする。
「おはよう。さあ起きて」
「……」
「カリーナ?」
 
 逆みたい……。
 本当なら、私がデイヴィッドを気遣ってそっと起きるはずなのに、今は、情熱の片鱗を散々カリーナに見せつけて、戸惑わせ困らせて楽しんでいるデイヴィッドがいる。
 
 ローズベイで過ごした週末のデイヴィッドは、ずっとこんな調子だった。
 のんびりとくつろいでいて、恥ずかしがるカリーナをからかいながらも優しくて、その優しさに油断していると、とんでもないキスをしかけてくる。
 でもマンハッタンに戻ってからは、上手に切り替えが出来ているのか、完全に仕事モードだった。一日の中で唯一一緒にいられる朝も、抱きしめられてもキスをされても、それは挨拶の域を超えなくて、穏やかで優しいものばかり。今のような事は全然なかった。
 だから、そういう人なのだと、思うようにしていた。
 ほんの少しよそよそしさを感じていて、ちょっとだけ寂しかった。
 でもどうやら違ったみたい……。単に時間がなかっただけだったようだ。
 どちらにしても、今デイヴィッドに必要なのはくつろげる時間。
 そのためなら、少しわがままになっても許されるはず……。
 
「デイヴィッド?」
「なに?」
「もっと一緒にいたい、って言ったらそうしてくれるの?」
 一瞬、デイヴィッドの眉が上がった。
「そうだね」
 思ったよりスムースな答えが返って来た。
 でも、その言葉には、ほんの少しからかい気味のニュアンスが感じられる。
 ともかく、このわがままを聞いてもらえるのなら、少しくらい我慢出来る。
「本当に?」
「ああ、君がそんなにうしろめたそうな顔をしないで頼んでくれたらね」
「デイヴィッド」
「カリーナ、心配しなくても大丈夫だ。面倒事は収まったから、直に落ち着く」
「いつ?」
「そんな顔をしないで。本当にすぐだから」
「でも」
「君が心配して言ってくれているのは良くわかっている。でも、せっかくの君のお願いを聞くのに、それでは私が物足りないな」
「え?」
「出来れば、お願いをする時は情熱的なキスでもしながら言って欲しいものだね」
「やだ……」
「そうしたら、どんなことでも聞いてあげるのに」
「もう……」
「カリーナ、ありがとう。でも本当に大丈夫だ」

 慣れない事はしないほうがいい、ということ?
 完全にデイヴィッドに真意を見破られている。
 
 カリーナは、わがままを言うことでデイヴィッドが少しでも仕事から解放される時間を作れるのなら、喜んでそうするつもりだった。でも、思う事と、実際に言葉にするのとでは、あまりにも違いがありすぎる。
 やっと言えた言葉は、完璧に読まれていた。
 でも、少しは聞いてもらえるかもしれない。
 最後にとても嬉しそうに微笑んで、キスしてくれたから……。
 そう思う事で、納得する事にした。


(2008.07.03)
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